カムデンタウン(Comden Town)
カムデンタウンの中にあるお店に立ち寄る沢たかおさん。
フィッシュ&チップスを流暢な英語で注文。
1991年、『MEN’S NON NO』のモデルとして活躍していた頃、仕事でカムデンタウンを訪れてから30年。
※カムデンタウンは、いくつものマーケットが集まった活気ある街として有名。
大沢さん、
「前は(イギリスの)食べ物本当ひどくて、本当に美味しくなかったんですよね」
「だからしょうがないからフィッシュ&チップスとか」
「怒られちゃうんですけど、食べ物なくて、しょうがなく(フィッシュ&チップス)を食べていた記憶があるんで」
今のイギリスの印象は、
「イギリス変わりましたよね、色鮮やかになったというか」
「モデル時代、来たときは、本当もう暗黒感たっぷりだったですよ」
1990年にサッチャーが首相を退き、ジョン・メージャーが首相になった当時のイギリスは、サッチャリズムからの転換を求められていた頃です。(筆者)
そのころ大沢さんは、撮影で海外を飛び回っていた。
大沢さん、
「ファッション業界に学校卒業して飛び込んだものの、さあなんか人生どうしようかな?」
と不安を抱えていた頃でもあった。
プロフィール

大沢 たかお
おおさわ たかお
1968年3月11日生まれ
東京都出身
俳優、ナレーター
専修大学在学中にスカウトされモデルとして活躍後、俳優に転向。
パリコレで挫折
大学3年生で、パリコレに挑戦。
大沢さん、
「僕らなんかお金なかったんで、(パリの)2畳ぐらいの安いアパートメントホテルみたいなところを2ヶ月くらい借りたかな」
「なんか、とりあえずオーディション受けたら出れんじゃないかって噂聞いて」
それだけの薄い情報で、パリコレに挑戦するというのは、よほど自信があったのでしょう。(筆者)
大沢さん、
「(パリで)オーディション行く、落ちる、ホテル帰ってくる」
の繰り返しが続いた。
「日本だったらそういう意味では、それなりにお仕事を頂けてたんだけど」
「(パリでは)選ばれても本番前のリハーサルで返されちゃう」
「世界になったときには、全く次元の違う連中がいっぱいいて、ショックだったんですよね」
当時の大沢さんは日本国内の感覚を持ち続けて海外に挑戦しようとしたわけです。視点が違うのでショックはかなり大きかったでしょうね。(筆者)
大沢さん、
「世界で自分は通用するって、10代の頃思ってたんで」
「もう挫折ですよ、ホテルから出れなくなっちゃって」
根拠なく挑戦するということは、無謀な事だというのを肌で感じたことでしょう。(筆者)
大沢さん、
「世界へ行って本当やっぱり、全く日本と違う次元でみんな生きてるんだな、(学生の時の)トライで知りましたね」
その時に誓ったことが、『いつか必ず帰ってくる』ということ。
唯一の合格
ヨウジヤマモトのオーディションに合格。
大沢さん、
「ヨウジさんていうのは、誰もが知ってるブランドだったんで」
「同じ日本人っていうのがおこがましくて」
「もっとなんか全然違うところにいた人たちだったんで」

MCの今田耕司さん、
「19、20歳の無敵な時ですよね」
大沢さん、
「おっしゃるとおりです」
今田さん、
「(当時はモデルとして)日本で積み上げてきたものがあるわけじゃないですか」
大沢さん、
「全く通用しないですよね」
「立って帰れ、って言われました、歩く前に、もういらない、って言われて」
当時はきっと、そこにいることが間違っているような感覚を覚えたことでしょう。(筆者)
モデルから役者へ
今田さん、
「国内ではいい評価なわけじゃないですか」
大沢さん、
「たまたま僕が一本引っかかったんで(ヨウジヤマモトに)、日本帰ってきたら凄く評価をして貰ったんだけど」
「内心、さっき言ったように、モデルの仕事を一生やっても、世界のトップには絶対なれないのを、その時に知っちゃったんだけど」
「(世界で勝負できないことを)言えなくてみんなに」
「それで数年ちょっとごまかしごまかし(やってた)」
自分の実力を客観的に知ることができたのは、良かったのかもしれません。ただ、その時の挫折感は耐えれないものだったことでしょう。(筆者)
今田さん
「そこでですか、ほんなら、役者って俳優って仕事は?」
大沢さん、
「その後1年くらい無職やってて、たまたま俳優の仕事の声をかけられたんですよね」
「その時に、もしかしたら俳優だったら世界と戦えるのかなって」
今田さん、
「もう一回、一から戦えるかなって?」
大沢さん、
「もしかしたら、可能性はゼロじゃないかと思ったんですよね」
可能性がゼロじゃないということを思っても、ゼロかもしれないという不安はあったことでしょう。それでも挑戦しようとした気持ちがあったからこそ、今の大沢たかおさんがいる訳ですね。(筆者)
イギリスで初舞台
1995年-1996年
『夏の夜の夢』で俳優に挑戦、イギリスで初舞台を踏む。
1996年-1998年
『劇的紀行 深夜特急』 でドラマ最終地がロンドンだった。
なぜか節目がロンドン。
大沢さん、
「むしろ寒いし、あんま来たくないなっみたいな」
気分的には行きたくないのに、何故か挑戦するたびにロンドンに行くことに。
2009年
『JIN-仁-』 でもイギリスを訪れた。
日本と断絶
大沢さん、
「12年ぐらい前に、『JIN-仁-』ってドラマがあって」
※東京国際ドラマウォード、ギャラクシー賞など、国内外の33の賞を受賞。
2009年、2011年(続編)放送
→ http://www.tbs.co.jp/jin-final/index-j.html
「夏ぐらいから撮影を始まることが決まってて」
「その前に、タイムスリップの話だったり、ちょっと特殊な話だったんでね」
「自分が全然違う場所にいたらどうなるか?そういうことを考えて」
「全部日本の情報をパソコンから削除して、一切広告も情報も外して、イギリスに来たんですよ」
イギリスでは、都会ではなくて、郊外を選び、3ヶ月間暮らした。
日本のことを全て忘れる気持ちで、イギリスの郊外で暮らすという決断には、勇気が必要だったはず。でも、それをあっさりと決めてしまうほど、計り知れない仕事への情熱を持っていた訳ですね。(筆者)
今田さん、
「無理、無理、無理、無理」
今田さんには絶対できない選択のようです。となると、海外でアナザースカイを体験するというのは、今田さんには無理なのでしょうか?(筆者)
イギリスでは、ご主人の奥さんが日本人で、その家の1室を借りていた。
当時暮らした家を尋ねる大沢さん。
大沢さんと英語の家庭教師とのやりとりを思い出す。
大沢さん、
「好きか嫌いかっていうと、イギリス苦手で」
「しんどかった思い出があって」
「公園をいつも走ってた」
好きじゃないイギリスで暮らすこを決意して、そこで3ヶ月間英語を学ぼうとするほど、役者への想いの方が、苦手なイギリスよりも強かったのでしょう。
この時から大沢たかおさんにとってのアナザースカイ(特別な場所としてのイギリス)が始まったことになるのではないでしょうか?(筆者)
大沢さん、
「(当時は)日本で何が起きてるのかも知らないし、電話も絶対かけないでもらって」
「次の仕事どうしようかな?みたいなこと考えてましたよずっと」
言葉も通じない見知らぬ土地で、先のことを考えながら暮らすと、不安に押しつぶされそうになります。筆者が昔イギリスで暮らした時も、次の仕事が決まっていない状態でした。あの頃の自分は、不安になったらいつも空を見上げていましたね。「この空は日本に続いているんだな」と。(筆者)
日本から離れた別の理由
映画監督のマーティン・スコセッシが13年前にやる企画があって、オーディションに合格。
大沢さん、
「ところが映画が飛んじゃったんですよ、ファイナンスの問題で」
「自分はそのとき、世界にもう出るなって予感してたのが、道がパーンって、ある日突然消えちゃった後だったんで」
「すごい頑張らなきゃいけないんだけど、悩んでて、という狭間(3か月間)だったんで」
よしやるぞ!という気持ちの時に、いきなり奈落の底に落とされた気分になることは、誰にでもあります。それを世間のせいにするのか?それとも、自分の糧と捉えるのか?で結果が大きく違ってきます。まるで二股に分かれた道を選ぶようなものですね。(筆者)
「答えを見つけるというか、カッコよく言うと、役作りみたいな『JIN』の」
「実はそうじゃなくて、さっき今思い出したけど」
「ある種エスケープみたいなところもあって、逃げてきたみたいな」
自分を別の世界に置くことが逃げることになるかもしれません。でも、逃げること自体が悪いのではなくて、自分を見つめなおすチャンスなのではないでしょうか?(筆者)
なぜ、イギリスに逃げたのか?
逃げるならハワイの方がよいのでは?
大沢さん、
「だってハワイ行ったらさ、最高じゃないですか」
「(ハワイだと)別に答えとかなくていいやってなっちゃう」
「ここ(イギリス)だと、ずっとここにいると、どんどん埋もれてく感覚があって、恐怖になっていくんですよ、イギリスにいると」
「ここ(更なる高み)に行けるはずなのに、何で行けないのかな?」
楽な道(ハワイ)を選べばそれでいいのに、大沢さんは敢えて厳しい道(イギリス)を選んだのには、心の奥底で更に上を目指すという信念があったからでしょう。(筆者)
俳優へのラストチャンス
大沢さん、
「やっぱり俳優だったら、世界へ届くと確信した時だったんですよね」
今田さん、
「その前のモデルの経験もあるし、やっとだと」
大沢さん、
「ようやく、何十年目にして来たなと思って、突然なくなって」
「あと残るのはこの『JIN』という実験的な作品しかなくなっちゃたんで」
今田さん、
「現代の医者が江戸時代にスリップして、なかなかの作品でしたもんね」
「今でこそヒットしたからね」
大沢さん、
「何でそんなドラマやるんだ?ってみんなに反対されましたね」
今田さん、
「それはやってみようと、自分の中で」
大沢さん、
「なんかそれぐらいのものでないと、起死回生のチャンスがないかな?と思ったんですよね」
つまり、大沢さんにとって背水の陣だった訳です。ところが蓋を開けてみると、俳優として新しい第一歩だったのでしょう。(筆者)
孤独なイギリス暮らし
大沢さん、
「(当時のイギリスでは)友達ひとりもいないですね)」
「英語の先生だったダミアンがすごい心配して、外連れ出してくれたり」
「でも、嫌な感じで(イギリスを)出なかったんですよね、なんか乗り越えたんですよね」
「帰りすごい気持ち良かったんですよね、何故かわかんないですよ」
「帰り、トランクに荷物詰めて出るとき、すごい爽やかだったんで、(イギリスに)来たとき地獄だったけど」
イギリスでの暮らしで吹っ切れたものがあったのでしょう。当時大沢さんが、日本を出たとき、いろんな悩みを抱えていたはずです。イギリスにいる間に、その悩みの一つ一つが小さくなっていったに違いありませんね。(筆者)
THE DRAPERS ARMS

英語のダミアン先生と再会。
ビールを飲みながら、大沢さんとダミアン先生が昔話に花を咲かせる。
大沢さんの英語がとても流暢なので、まるでずっとイギリスにいるみたいですね。(筆者)
世界への切符
2018-2019年
『王様と私』
大沢たかおさんはロンドンで、主役とメインキャストの二役をこなした。

今田さん、
「舞台は何のきっかけで出ることになったんですか?」
大沢さん、
「そもそも渡辺謙さんが、4、5年前からニューヨークでやってて」
「(渡辺謙さんから)連絡がきて、見に来ればと言われて見に行った」
「その時演出家を紹介されて、演出家から『地下にスタジオあるからスタジオ来てくれ』と言われて行ったら」
「ピアニストがいて、オーディションみたいな、僕、携帯とコーヒー持ってて」
今田さん、
「オーディションやとは思わないですよね」
大沢さん、
「思わないですよ」
「(その時は)たまたま日本の仕事があったからできなかったんですけど」
「3年後くらいに急に連絡がきて、『こんどイギリスでやるんだけども、謙さんも出て頂けるんで』」
「じゃ自分もそこの胸借りて(やろうときめた)」
「場所がイギリスと聞いて嫌な感じがしたんですけど」
今田さん、
「縁があるな~、不思議」
モデルの時にイギリスを訪れてから30年、俳優としてようやく世界を捉えた。

モデルで世界を目指して挫折し、あきらめずに、別の方法で世界を目指してやってきたことが、結果的に良かったということですね。(筆者)
HANGKANG
韓国焼肉料理店

出典:citikey.uk
アーサー・リー(38)
大沢さん、
「彼は共演者で、とにかく色々助けてくれたんですよね」
「ウェストエンドって助けてくれなくて、自分のことは自分で片づけないといけないし」
「常識もわからないことだらけで、だったんだけど、(アーサーが)理解してくれて、フォローもしてくれたし」
舞台演劇の最高峰ウェストエンド、情け容赦ない厳しい世界は、想像を絶する修羅の道。
いきなり世界のトップレベルで勝負することになって、もの凄いプレッシャーがあったことでしょう。それを乗り越えられたのは、モデル時代の挫折があったからに違いありませんね。(筆者)

今田さん、
「現地の本物の舞台人が驚いているぐらいの」
MCの広瀬アリスさん、
「しかも二役」
大沢さん、
「英語も初めてですし、芝居も」
今田さん、
「もちろん知らん単語とか、山ほど出てくるでしょ、セリフの中で」
大沢さん、
「山ほど」
「プラス二役も初めてだったんで、分からないことだらけだったんですよね」
広瀬さん、
「その準備期間ていうのは、もちろんたくさん?」
大沢さん、
「自分で自主トレしかやってくれないんで彼ら(役者たち)は」
「いきなり初日からみんなバンバン動くんですよ」
「現場に入ったときは、全部完璧に出来てないと帰らなきゃいけないんで」
「僕の代わりが二人待ってたんで」
今田さん、
「また帰らされるパターン待ってんねや(ライバルたちは)」
まさに、ライバルを蹴落とすしかなチャンスがない世界という訳ですね。(筆者)
大沢さん、
「(ライバルが)自分のSNSに僕(大沢さん)のセリフをわざとやって、自分がうまいところを上げたり(アップロード)とか」
「それを共演者みんなに回したりするんですよね」
今田さん、
「世界で戦うということは、そういう闘いもあるわけですね」
世界で勝ち抜くためには、自分を売り込む手段を選ばないのが必要ということです。世界を股にかける経営者にもそういう人がいますよね・・・。(筆者)
楽屋の友
ディーン・ジョン・ウィルソン(30)
「アラジン」で主役を努めた。
ボイストレーナーとしても有名。
トレーナーの予約は半年待ち。
大沢さん、
「ボイストレーナーであったり、歌の指導しているってことは、(当時)途中まで知らなくて」
「あるとき僕が自分で練習してたら、ウェストエンドで歌うときは、こういう風にやったらいいっていうのを、一から十まで全部教えられましたよ」
「本当に感謝してますよね」
こういう人がいたからこそ、ロンドンで成功できたのでしょう。やはり、人の支えが重要だということを再認識させられます。(筆者)
大沢さん、
「(ディーンさんは)お金を取ってるプロの人なんで、それでお金を払おうとしたら、本当に走って逃げて行っちゃったんですよね」
「絶対いらないって言うんですよね」
ディーンさん曰く、
「僕は大した事してないよ」
まさにプロとして意識の高さではないでしょうか?お金を貰うにはそれなりの事をしなければないけない、という考えがあるのでしょう。(筆者)
スタジオを借りて
『王様と私』では、5か月間、毎日スタジオを借りて稽古を続けた。
公演が10:00~16:00
大沢さん、
「朝来たときは朝やって、ご飯食べに帰って、午後1時から4時ぐらいまで3時間くらいやって」
「昼間(公演)に首相をやって、夜(公演)王をやる日は、1日2つの役を1時間の間でやんなきゃいけないので」
「そうなると間に合わないんで、朝8時とかにスタジオに来て、夜のキング(王様)の練習を先に作って」
「そのままキングのまま現場行って、ウォーミングアップで、一回、首相役のセリフを思い出してやって」
「(スタジオで)朝やったことをもう一回頭入れ替えて、夜の本番やるって感じ」
これだけのことを慣れない英語で、しかもウェストエンドでやり通すには、普通じゃできません。役者として世界で活躍したいという熱い想いがないと絶対にできませんね。(筆者)
大沢さん、
「なんかもうすぐ時計見ちゃう癖があって」
「何時間で劇場だからって、何分にここ出てとか、いつでも本番やれる状態にして」
「ギリギリまで、もったいないじゃないですかスタジオも高いし」
今田さん、
「あのスタジオ自分で借りて!?」
大沢さん、
「そうですね」
スタジオを自費で借りてまで練習しないと、舞台に立てない厳しい日々を送っていたんですね。毎日が真剣勝負という緊張に耐えるのは、計り知れない辛さでもあったことでしょう。(筆者)
ストイックなまでに
今田さん、
「お一人で(スタジオで)やられてたんですか?」
大沢さん、
「俳優がちょっとずつ友達できてたんで、道連れにして彼(アーサー・リー)を付き合わせて」
「それでそのまま劇場行って、終わってウェイトトレーニング(夜)12時くらいからやって、(深夜)2時ぐらいに寝て、次の日朝起きて、一人でスタジオ行って」
今田さん、
「全然おもろないじゃないですか」
大沢さん、
「全然、今イギリスを見てもワクワクもドキドキもしないんですよね」
本当に、役のために丸一日を過ごすという日々の連続で、他のことはほとんど何もできなかったのでしょう。なので、イギリスでの楽しい思い出というのが無い訳ですね。(筆者)
人の100倍
大沢さん、
「例えば他の役者さんがある行をいきなり言うんですよ」
「僕はその行に反応して次のセリフを言うのをずっと(練習として)やってましたよ」
「わかんなくてどうしていいのか?教えてくれる人がいなかったから」
「日本語じゃないし、人の100倍やんないと、平均点に追いつかないですよね」
そこまでやらなきゃいけない状態に追い込まれても、諦められなかったのには、誰にも分からない、大沢さんだけが知る理由があったからでしょう。きっと、30年前のモデル時代の挫折が影響していることは確かですね。(筆者)
「休めって言われますね、声も壊しますし」
広瀬さん、
「消耗品ですからね」
大沢さん、
「こんなこと誰にも真似して欲しくないし、あんな苦しいこと絶対やんない方がいいと思うんですよ」
「大赤字で帰りましたから日本に」
大沢たかおさんにとって、ウェストエンドの舞台に立つということは、お金を稼ぐということではなくて、自分への投資をしたことで大きな財産を得たことになります。
これこそアナザースカイなのではないでしょうか?(筆者)
小さい頃の夢
大沢さん、
「小っちゃい頃にいつか仕事を自分が何かするときに、世界の人と戦うような仕事がいいなと思ったんですね」
「それがなかったら、僕は続けられなかったかもしれないですよね」
子供の頃の夢を実現するのは並大抵ではありません。大人になるにつれて現実的な道を選ぶのが普通です。しかし、その夢の本当の意味を知ればきっと、普通じゃない道を選ぶことになるでしょう。
大沢たかおさんは、子供の頃の夢の意味をずっと理解しようと努力してきたのではないでしょうか?(筆者)
大沢さん、
「毎回うまく行かずに叩きのめされて、悔しくてそれを考えると寝れなくなるんだけど」
「やられても打ちのめされても、落ち込んで飛行機乗って帰ってきて」
「また威勢よく行って、またやられて」
「やっぱダメだったかみたいな事を、ずっと繰り返してる人生な気がしますけどね」
ここまで来ると、諦めないことが勝利への道というシンプルな考え方に行きつきますね。(筆者)
主役当日の出来事
『王様と私』の主役当日、思考停止に陥った。
重責に押しつぶされそうになった。
大沢さん、
「何十年もやってて、自分がこんなにビビるのか?って思ったくらい」
「出れないんですよ、怖くてステージに」
「自分の番ギリギリなのに、まずどっから出ていいかわかんないんですよ」
今田さん、
「もう、なんかパニックになったんですか?」
大沢さん、
「リハーサルやってくれないんですよね」
「(主役は)ぶっつけ本番なんですよ、キング(王様と私)は」
広瀬さん、
「行かないとわからないことっていっぱいあるじゃないですか?やってみないとわからない・・・」
リハーサルなしに、いきなり本番で役を演じるのは、信じられないことです。反面、自分の中で完全に出来上がっていることで、最高のパフォーマンスを発揮できるというのも、わからないことではありません。つまり、自分が役の中に入り切ることがベストだということなのでしょう。(筆者)
友人への思い
大沢さん、
「例えば、(渡辺)謙さんに聞くことはできるだんけど、契約で役者同士がいろんな話しちゃいけないんですよ」
「教え合ったりすることって、演出家の仕事なんです」
今田さん、
「向こうは全部決まっている!?」
大沢さん、
「はい、契約書に全部サインするんで」
「だから、自分でビデオ見るしかないんです」
今田さん、
「だからこそ(舞台に)行けないと思った?」
大沢さん、
「最初から最後まで、3時間セリフまず言えないと思ったんですね、ぶっつけ本番で」
「自分で何とかしなきゃいけない、アドリブで何とか」
契約に縛られて演技をするというのは、シビア過ぎます。でも、「それをやり遂げるのがプロ」だという意識がウェストエンドにはある訳ですね。(筆者)
今田さん、
「引くわ~、この話」
その時、友人の役者が契約違反となるリスクを顧みず、ただ黙って隣に座ってくれた。
大沢さん、
「教えちゃいけないんで、だからみんなも自分の契約違反で、教えに来てくれてるんですよね」
「(みんなに)恥かかせたくないし、残念な思いをして欲しくないし、その人たちに答えなきゃいけないんで」
そして、世界の大舞台に立つことができた。
広瀬アリスさん、
「鳥肌立っちゃう」
常に刺激を求める
今田さん、
「あそこまでの刺激あったんですよ、逆にもう欲しないですか?自分がもっと」
「あれ?俺はいいのか今、今年、みたいな」
大沢さん、
「これがねそうなるんですよ」
今田さん、
「20歳から続けてるわけじゃないですか」
大沢さん、
「それ以上の刺激じゃないと、嫌なんですよねもう」
今田さんが広瀬アリスさんに、
「最近、(大沢さんと)共演したんでしょ」
「(この番組が)共演後で良かったよね本当に」
※大沢たかおさんと広瀬アリスさんは映画『AI 崩壊』で共演

広瀬さん、
「これから撮影します(だったら)、もう台本を(めくりまくる仕草)」
確かに、大沢さんとの共演前にこの話を聞いたら、広瀬さんは緊張しすぎてしまったことでしょう。(筆者)
大沢さん、
「でも台本読んで、状況聞いたら、この作品も厳しいなと思ったんですよね」
「とてもつもない大きな予算で、しかもオリジナル脚本で、近未来って、通常絶対うまくいかないものばっかりなんですよ」
今田さん、
「近未来?、オリジナル脚本?」
大沢さん、
「絶対だめそうじゃないですか」
「それになんか惹かれちゃったんですよ、これ絶対成功させたい!と思ったんですよ」
広瀬さん、
「私は、初めて自分の作品を、客観的に見れたじゃないですけど、めちゃめちゃ面白いと思ったんですよ」
ロンドンはどんな場所
今田さん、
「大沢たかおさんにとってロンドンはどんな場所でしょうか?」
大沢さん
「人間として成長できる場所ですかね」
番組で流れた曲(BGM)
大沢たかおさんがストイックに役をこなしたロンドン。
ゆっくりとした時間を過ごしたくなるような曲をご紹介します。
Trevor Daniel – Falling
Niall Horan – Nice To Meet Ya
見逃したときについて
こちらで、見逃したときにどうすればよいか?を説明しています。
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